中国人妻の徒然草

渋谷に住む中国人妻、慶應出身。2011年大震災直後に来日、2019年1月に一般日本人男性と結婚。

自分がフェミニストであることを否定する風潮はどうかと思う

女性の中では、自分がフェミニストであることを否定する風潮がある。

 

フェミニストだと認めたら、自分は「女なのに強い」、「わがまま」、「かわいくない」、「男性にどう思われるか気になる」などの思い込みはあるからだ。特に、日本に。

 

自分も一時期自分がフェミニストであることを否定してた。

 

正直自分を否定したその時の自分を情け無く思った。

 

長い間ジェンダーに関する研究に触れ続けてきて、フェミニストは女性上位というより男女平等を真に主張してることを世に知らせたい。

 

男尊女卑の社会では、「女らしく」とか「女子力」とか、女性に対するステレオタイプが強い一方、男性に対するステレオタイプも同様に酷いからだ。

 

男性は必ず大黒柱になるとか、男性は出世しなきゃとか、男性は一家の支えで支配地位を守らなきゃとか、ね。

 

「男らしく」とは、「女らしく」と同じく、酷い言葉だ。

 

「男の子は青、女の子はピンク」、「男の子のオモチャらロボット、女の子のオモチャはお人形さん」などの、人それぞれの性格と好みではなく、性別による制限とステレオタイプも、そこからだ。

 

私はフェミニストであるが、それでも無意識的にこのような社会意識に悪影響され、時々囚われた考え方があると驚愕してる。本当に情け無い。

 

私はフェミニスト。このアイデンティティに誇りに思う。

 

女性は見られるものではなく一人の人間として生き、自分の進みたい道を拓くほか、男性だって弱くなることが許され、泣いてもいい社会へ。

 

男性だって世間に決められた道だけではなく、稼ぐ機器でもなく同じく一人の人間として自分の好きな道を歩めばいい真の男女平等の社会になれる社会、それこそがフェミニストが目指す社会だ。

 

フェミニストは、女性上位ではなく、女尊男卑でもない。男女ともステレオタイプに当てはめられる前にまず一人の人間であることを認識できる平権主義者だ。

 

女性は気が強く、自分をしっかり持って、しっかり意見交換のできるのがいい。もしそれが、その女性の生れつきの性格なら、それでいい。

 

男性は泣き虫で、平和好きで、体育嫌いで料理することが大好き、という性格でも素晴らしい。もしそれが、その男性の生れつきの性格なら、それでいい。

 

「男性」とか、「女性」とかの分類の前に、まず「人間」だから。

 

「人間」だから、性格それぞれであることは当然だ。

 

しっかり自分を持ち、自分に自信があり、自分の意見をしっかり持って伝えること、それは人間としての基本。

 

女性とは、強くて、逞しくて、しっかりと自分の足で土に立ち、しっかりと自分の歩みたい未来の道へ進む美しくて潔い最高な人間の形。

 

フェミニストとして、平権主義者として、胸を張って誇り高く生きていく世界のほうが、おもしろいではないか。

中華風日本料理をやめてもらえないか?

銀座で一度だけ、広州の名物料理煲仔飯をいただいたことがある。美味しかった。味も形も70%ぐらい本物に似てる。違うのは「気」かなあ。

 

本物は30分ぐらい煮込んで蓋を開ける時にザーザーって音して「煙火気」がある。こちらは鶏肉の味付けや醤油の味も本物にとても似てるがどこか日本らしく定食皿を「煲」に変えた感じ。でも、ホームシックの自分にはこの店があるだけでありがたく思う。

 

普段、日本の中華料理なんて一切食べない、むしろ嫌い。広東麺とか天津飯とかエビチリとか杏仁豆腐とかは一体何なんだ。ありえない。しかも勝手に中華料理は脂っこいっていうイメージ付け。広東料理はさっぱりして油あまり使わないし味付けも食材本来の味を引き立てることを重要視してるのに。アメリカでは、本場の広東料理はフレンチや和食と同じく、高級料理の一種なのに。

 

ましてなぜ広東料理の店に北京ダッグがあるんだ?なぜ青椒肉絲みたいな四川料理上海料理の店で食べられるんだ?そもそも北京料理上海料理は何なんだ?北京には料理と言える系統あったっけ?上海は本幇菜しか知らないよ。

 

あんなの、中華料理とは言えない。中華風日本料理だけだ。まして、そのような料理があるから、本場の中華料理を「脂っこい」とか、「汚い」とか、勝手にイメージ付くまでするとか、傲慢にもほどがある。

 

同じ大都会なのに、食についてニューヨークは違う。基本本場の味が味わえるところが多い。日本は移民などが比較的に少なく、単一民族の国だからかもしれないが、よく「日本人の口に合わせるように」というのが売りになるような気がする。そろそろ、他国の味を尊重してはどうだ。

 

 

それはただの、自己満足?それとも…

出身校の慶應では毎年、別科・日本語教育課程などに在籍している留学生が参加できるスピーチコンテストが開催される。

 

別科時代、一度参加しようかと思ったが、時間調整ができてなく諦めた。それから一度も実際聞いたことなかったが、院卒後、偶然平日に空いてる日がコンテストが開催される日と重なったので、三田演説館へ向かい、後輩たちのスピーチを聞こうと思った。

 

テーマは、「母国に持ち帰りたい日本のもの」だった。

 


いや、実は前例のないこの酷いテーマ自身に最初から「なにこの自己満足」って突っ込みたかった。そもそもこれは、一種の罠に近いテーマ設置。ミスリードされて、安易に日本を賞賛し、日本と比べて自国を貶める傾向になるだろう。そうでなくただ日本を賞賛するだけなら、内容は表面的になる。でも、比較しても表面的な比較しかできなく、同じく表面的になるが…ずるい。

 


結局やっぱりそうなった。がっかりした。会場内に飛び交った「日本人は〜」「中国人は〜」「台湾人は〜」「ドイツ人は〜」、さらには「○○人全員は〜」などに深刻な無力感を感じた。なぜ演説者がそんなふうに言い切れるのだろう?だれがあなたに「私」を代表する権利を与えたのだろう?

 


少し、腹が立った。

 


私は何せよ世界主義者であり、普段生活にもなるべく「○○人」「××人」などの呼び名を使わないように気をつけている。なぜなら、それこそが国家意識となり、紛争を引き起こし、「他者」や「異端」などの差別を喚起する危険性があるからです。そもそも、同じ地球に生きる人類なのに、「○○人」などの、人工な国境による呼び方は本当にいいだろうか?

 


それにしても、スピーチ中にはいろいろなステレオタイプが感じられる。浅はか…私も浅はか人間だけど、あんなに表面的なステレオタイプを強めるスピーチテーマは、本当に存在していいだろうか?


別科時代、参加してなくてよかったと思う。少なくとも、参加しないことで、世の中のステレオタイプを少しだけでも減らせたなら、嬉しいなあと。

パルミラへの祈り

聖母堂の焼失で思い出した、このコンサート。

 

パルミラ、それはISISによって破壊された、同じく人類全員の宝物だ。

 

シリア戦争前に感じていた、世界が全体的に右に転向しようとしていることを。中国も、日本も、アメリカも、これからは、ヨーロッパも。

 

少年時代、左、リベラル、多元文明主義、グローバルに賛成してたが今は違う。いつからかわったんだろう。ISISが出てきた時から?色革命があちこちで噴発した時から?911から?多元主義は本当に正しいのか?文化の陋習も尊重されるべきなのか?

 

FGM、聖戦テロ、シャリーア法、強制的夫婦同姓、男女別賃金…一々尊重する必要あるか?pluralismに対する再検討をする必要があると思う。女性に、子供に、人権に…political correctnessは一体だれを守っている?アメリカバージョンの文化大革命になる前にやめるのだ。

 

善には善を、悪には悪を。人類が本当に守るべきはなんなんだ?本、芸術、音楽、歴史、舞踏:文明の光、我らが見上げた星空、文化財に潜める先人達の思い出、それは必ず後世に伝えるべき力。それらを守るんだ。パルミラのコンサートは、そういう力なのだ。

‘Pray for Palmyra’ concert conducted by Gergiev goes ahead in Palmyra - REFEED - YouTube

日本にいるとたまに可笑しいなと思う褒め言葉

1.外国人に対する「褒め言葉」:

・日本人に似てる!
・日本人より日本人!

 

2.日本国内の旅行地などに対する「褒め言葉」:

・まるで海外!
・海外にいるようなオシャレな雰囲気!

 

3.ヘアスタイルカッコいい時の「褒め言葉」:

・まるで「外国人風」!

 

 

 

※そもそも、「日本人に似てる」ことが人を褒めることができる不思議な認識。

 

※「海外」とは、欧米限定だけ。

 

※「外国人風」というのも、欧米人限定。

 

…は。

 

いわゆる、「女性でも」ということ

2011年に留学生として来日して、最初に妙に感じた言葉はこの一つ。

 

「女性でも」

 

小おしゃれのお店をテレビで紹介されたら、必ずこの言葉が出てくる。

 

「女性でも入りやすい。」

 

特に、ラーメン屋さんや、居酒屋などのお店ならそうなっている。

 

また似ているのは、「女性に大人気」、「女性が喜ぶ」などもある。

 

最初はこの言葉に対する違和感はどこから来たか分からなかったが、はじめて牛丼屋さんに一人で入って、なんとなく分かるようになった。

 

入った瞬間、店内で必死に牛丼を食べてるお客さんが全員パっと顔を上げて、驚いたように私に視線を集中しているからだ。

 

店内のお客さんは、全員男性だった。

 

私は、あの牛丼屋さんにいるべきではない、と言っていたようだった。

 

その後知ったのは、「女性らしさ」という言葉だ。

 

女性は、きちんとした化粧とヘアセットして、毎日綺麗な服着て、少し高いがおしゃれな店でハーフサイズで必ずサラダとデザートが付いてるランチを食べる、特殊扱いが必要な生物だ、と聞かされてるような。これこそが社会全体が期待している「女性らしい」姿なのだ。

 

なので、飲み会の時は女性が料理の小分けやドリンク注文の役割を果たすべきだ。なので、女性は当たり前のように男性にお酒を注ぐべきだ。なので、焼肉食べたら、女性は手の不自由がない男性のために肉を焼くべきだ…なので、女性は「見られる」側として、いつでも「見る側」が喜ぶように、本来の自分を隠すべきだ。

 

…色々な「べき」論に、やがてうんざりしてしまうようになった。

 

そもそも、「女性らしさ」とは何だろう。○○人みたいな言葉と同じく、一種のステレオタイプ、そして勝手な期待と先入観に過ぎないと私は思う。

 

男性でも女性でも、その前に同じ人間であることは間違いがない。同じ人間であれば、だるく感じたらリラックスして化粧したくなかったり、お腹が空いた時に入りたい店で食べたいものを食べたりすることができる。それは、「女性だから」やりたいからではなく、「私」がやりたいから、それだけだ。

 

そういえば、最初に入った牛丼屋さんの話、その後どうしたって?

 

もちろん私は、肉汁満々の美味しい牛丼を、温泉卵も追加してパクパクと大口で完食したよ!

 

 

 

 

 

 

 

○○人はどうでもいいことだ。

はじめての記事は大体、何を書くか分からないもの。

 

このブログの存在は、夫との会話の中で、偶然できたアイデアからだ。

「日本で生きていること、違和感に感じたことや考えていたこと、書いてみたらどうだ」と。

 

なるほど、と思った。

 

ブログタイトルと紹介にわざと、「中国人妻」や「一般日本人男性」と記載したが、罠です(笑)

 

このブログは私一個人の考えを記録として残したい。あくまで、私が見た、感じた日本を、そして、世界を。

 

中国人でも、日本人でも、どうでもいい。レベル貼り付けることで、ステレオタイプが生じること。そんなステレオタイプの世界にどう向き合うか考えたく、このブログがあるのだ。